おばあちゃんの桜

この季節に関東に行くことはなかなかなかったのですが、祖母の訃報が届き上京。お通夜まで時間があるので、靖国神社千鳥ヶ淵の桜を見てきました。
桜をみるとき、(とくに靖国では)、散ってしまった桜も忘れたくないですね。咲いている桜ばっかり愛でられて、散ってしまったらゴミでは悲しいですから。花は必ず散りますので。
最後の二枚の桜は葬式の会場での写真。満開の中旅立ちました。天寿を全うし、老衰でなくなった祖母。痩せて、目はくぼみ、頭蓋骨の形がわかるような姿でした。でも僕はその姿が神々しいなと思いました。すべてを余すことなく使い切った感じがしたからです。老衰でなくなる場合、体は死ぬ準備をし、肉や水分を落とし、体を楽にするそうです。まさにそれを成しえた(ように見えました)。ある意味、ふっくらした亡骸の方が、悔いが残るかもしれません、余力を残した感じがするので。人は必ず死ぬので、死ぬことは仕方がないです(悲しいですが)。その中でどう生き、どう死ぬのか。そこに大きな違いがあるように思います。
家族や知人に囲まれ、己に与えられた全てを使い切っての旅立ち。正直うらやましくも思いました。僕はこんなすばらしいゴールができるかと。

祖父も2年半ほど前に亡くなりました。日華事変に出征していた祖父と、改めて戦争の話をしたかったです。小学生の自分ではわからなかったけど、歴史を学んだ今の自分ならもっと伝えられることがあったはず。そう思うと悔やまれます。

最後の写真は祖父母の住宅跡。二十年ほど前に取り壊され、新築されましたが、僕にとってはここがおじいちゃんおばあちゃんの家。
黒光りする板の廊下を歩けばミシミシなるような、サザエさんみたいな縁側のあるようなそんな家。大きなザリガニがいた田んぼ(もういなくなったけど)、セミの抜け殻を拾った神社。
その体験は今僕がここ長野の田舎にいる理由の一つになっていると思う。

おじいちゃん、おばあちゃん、
つないでくれて、ありがとう。